ハリー・シラルディの家族への最後の言葉
ハリー・シラルディは、ノルマンディー上陸作戦に衛生兵として従軍していました。
そんな彼が戦闘前に、母親に手紙を送りました。
“親愛なるママへ
僕が元気で、家にいるみんなの体調がいいことを願っていることを知らせるために、今夜数行書きます。
今ベースボールをやり終えて、シャワーを浴びて、とてもいい気分です。
家のことがすべてうまくいっていることを願っています。
もしお金が必要になったら、私の軍事公債でも何でも使っていいことを忘れないで下さい。
今日の午後、教会へ行って聖餐式をまた受けました。
僕は聖体を得たのかな?
ママ、今夜言いたいのはこれだけです。
みんなへの愛でこの手紙を閉じ、ママからまたすぐお便りがあることを願っています。
お身体をお大事に。
あなたを愛する息子の一人
ハリー”
シラルディはノルマンディー上陸作戦の日の朝、敵の砲火に倒れました。
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マイケル・アンドリュー・スコットの父親宛の手紙
マイケル・アンドリュー・スコットは8人兄弟の一人で、戦争が始まった当時は教師をしていました。
従軍してからも彼は日記を書き続け、戦争の無益さ、義務感、音楽への愛などについて書いていました。
そんな彼が遺書として、次の手紙を父親宛に残しました。
“親愛なる父へ
この手紙は私が死んだ時にのみ使われるので、何か不気味な紙にみえるかもしれませんが、パパにはそんな風に見て欲しいとは思っていません。
地球にいる、この「命」といわれるものが、人類の発達におけるつかの間の段階で、恐ろしい「死」という言葉が何か恐れられたものを意味するべきではないと、私は常々感じています。
私は自分の飛行を終え、次の段階である完成へと進まねばなりません。
だから心配しないでください。
私は大丈夫です。
私はパパとママが見せてきた、そしてこんな悲しい時でも見せ続けるであろう勇気に敬意を表します。
敵と向かい合って笑って軽蔑し合うのは簡単ですが、苦難や不安、絶望といった見えない敵は非常に厄介です。
パパは僅かな人にしかできないような、家族を団結してきたことに対し、脱帽します。
私に今できることは、戦争が勝利に終わり、お二人が普通の生活に戻ることができると信じていると表明することです。
お二人に幸運を祈ります!
ミック”
スコットはイギリス海峡で飛行訓練中に殺されました。
最後の日記は1940年5月18日でした。
Dデイ前のカナダ落下傘部隊兵の手紙
レスリー・アブラム・ニューフェルドは21歳の1942年に二人の兄弟とともに入隊し、兄のレオナルドとともにカナダ軍の医療班に従事しました。
そして、第1落下傘部隊に志願し、Dデイ前の不安な待機中に、念のために家族にさよならを告げる手紙を書きました。
“親愛なる両親、兄弟、姉妹へ
書く時間があまりありませんが、すべてがうまくいっていると知らせるために少し書かなければなりません。
まずは、煙草と小包、それから手紙をありがとうございます。
お父さんからの手紙を昨日受け取りました。
間違って、レンの煙草も受け取りました。
長らく待たれていた、フランスへの侵攻する時が来ました。
そうです、私はその真っ只中にいるのです。
私はパラシュートで上陸する最初の100人のカナダ兵のひとりです。
あらゆる条件や状況に合わせて訓練してきたので、我々にはかなりのチャンスがあります。
落下傘部隊にとして行くのは、完全に私の選択です。
私は医療の仕事には全く携わってはいません。
この仕事は危険、とても危険です。
私に何が起こっても、悲しんだり悩んだりしないで、国に全力を注いで従事したと思ってください。
その精神をもって、戦場に行きます。
そして、ニパウィンの町が戦争に勝つのに役に立ったと知らしめましょう。
私には帰る見込みや神の強さ、神の導きがあります。
神は私にあらゆる危険を見通すでしょう。
私の信頼は、神にあります。
あなたの愛する息子
レスリー”
レスリーの部隊はヴァラヴィルに落下し、彼はすぐに殺されました。
弟のエドワードは“父が泣いたのを見たのはこの時だけだ”と言いました。
捕虜の手紙
トミー・ケネディー少尉が戦時中日本人の捕虜となった時、まだ21歳でした。
3年近く捕虜として過ごしたトミーはかなりの栄養失調で、大事に持っていた家族の写真の裏に言葉をしたためました。
“ママ、パパ、
戦うチャンスもなくこのように死ぬのはかなりつらいですが、もう生きながらえないでしょう。
死ぬのは怖くありませんが、ママとパパにもう会えないと思うことがとても残念です。
私のお金で牧場を買って、そこにいる時は私のことを思ってください。
妹達には自由に寄付をしてあげてください。
ガリーが高校1年で新しい車を持つよう取り計らってあげてください。
ベーカースフィールドで素敵な儀式をして、共同墓地に墓石を置いてください。
私の甥や姪のことを頼みます。
私が欲しかったような暖かさや水など、彼らには不足させないようにしてください。
愛しています。
そしてあの世で待っています。
あなたたちの息子
トミー・ケネディー少尉”
この手紙は捕虜から捕虜へと渡され、送られることができました。
両親がこの手紙を受け取ったのは、4年も経ってからです。
ホロコーストの犠牲者の手紙
タルノポルで、2通の手紙が見つかりました。
戦争前、この町には1万8千人のユダヤ人がいましたが、生き残ったのは150人だけでした。
“タルノポル 1943年4月7日
この世を去る前に、私の愛した人たちに少し書き残したいと思います。
この手紙がいつか届けば、私も他の人たちももうここにはいないでしょう。
私たちの最後はすぐそばに近づいているのです。
誰もがそれを感じ、誰もがそれを知っています。
ただ無邪気で無防備なユダヤ人が処刑されたように、私たちもみな死に追い込まれるのです。
私たちにこの恐ろしい、身の毛のよだつ死から逃れる方法はないのです。
最初の頃(1941年6月)、5千人が殺され、その中に夫がいました。
6週間後、5日間探して夫の遺体を見つけました。
その日以来、私の人生は終わりました。
よりよい忠実な相手をもつことを願っていた少女の頃の夢さえも。
私はたった2年2ヶ月の幸せを与えられました。
そして今は?
遺体の中探し回るのに疲れ、見つけられて嬉しかったとしても、この苦痛をどう言葉で表現したらいいのでしょう?”
“タルノポル 1943年4月26日
私はまだ生きていて、7日から今日までに起きたことを書きたいと思います。
ガリシアからユダヤ人が完全に除かれます。
最終的に、ゲットーは5月1日に一掃されるのです。
ここ数日の間に、何千人もの人が撃ち殺されました。
集合場所は、私たちの収容所で、ここで犠牲者が選ばれるのです。
ペトリコフでは、墓穴の前で服を脱がされ裸になり、ひざまずかされ、撃たれるのを待ちます。
犠牲者は列に並んで立っていて、自分の番を待っています。
すべての手順はそんなに時間がかからず、30分もすれば、執行された人の服は収容所に戻されます。
なぜ泣くことができないのでしょう?なぜ自分の身を守ることができないのでしょう?
どうして罪のない血が流れるのを見て何も言わず、何もせず、同じ死を待つことができるのでしょうか?
私たちはこんなにも惨めに、無慈悲に従うよう強要されているのです。
こんな風に終わりたい、こんな風に死にたいと思っていると思いますか?
いいえ!いいえ!
自分を守りたい衝動や生きたいという思いが強くなり、死が近づいています。
理解を超えています。”
ギロチン処刑前のエホバの証人の手紙
17歳でエホバの証人となったゲルハルト・シュタイナッハーは、ナチスに従わなかったため、1939年9月15日に逮捕されました。
処刑の前、彼は家族に手紙を書くことを許されました。
“親愛なる母と父へ
2時間前の午後7時に、明日の朝5時50分に処刑されることを知らされました。
時は来たのです。
今午前1時頃で、監房に座り、思うままにこの手紙を書いています。
外は寒く、また雪が降っています。
起ころうとしていることは、止めることはできません。
今はもう朝3時30分です。
こんなに早くすべてがふりかかるとは思ってもみませんでした。
〔ナチスに3行消去された〕
私の所持品を受け取ってください。
ペン、紙、手紙、お金、服、鍵など。
それから祖父母、叔父、叔母によろしくお伝えください。
お父さん、諦めないで強くいてください。
お母さん、強くしっかりして、お互い支え合ってください。
お母さんに何も起こらないことを願っています。
親愛なるお父さん、お母さん、挨拶とともにキスを贈ります。
僕はいつまでもあなたたちのゲルハルトです。
お元気で。
たくさんのキスを。”
ゲルハルトは1940年3月30日に首をはねられました。
たったの19歳でした。
もう一人の殺戮を拒否したエホバの証人
ヴォルフガング・キュッセロウとその家族は、エホバの証人としてナチスから監視されていました。
キュッセロウは1941年12月に逮捕され処刑されることとなり、処刑前夜に家族宛に手紙を書きました。
“親愛なる両親と兄弟へ!
あなたの3番目の息子が明日早朝、この世を去ります。
悲しまないで下さい。
ともにすべてを分かち合うこの時が来るのです。
涙を流して種をまく人は、喜びとともに収穫するのです。
もしみんながまた会えたら、どれほど嬉しいでしょうか。
この古い世界から最後のご挨拶と、新しい世界でまたすぐお会いできることを願って。
ヴォルフガング”
ヴォルフガングは1942年3月28日に処刑された時、22歳でした。
1万人のエホバの証人のうち、およそ3300人が収容所に送られ、1400人が死亡、250人が処刑されました。
意図的な物を感じる選出。
「枢軸国は悪」という編纂者の思想が透けて見える。
『きけわだつみのこえ』と似た臭いがする。
上原良司は全体主義の暴走を鋭く批判し戦後左翼に利用されちゃった方。
彼を出すなら右翼から愛されてる黒木博司などの遺書も紹介すべきだろう。
公平性を無視した選出にこの編纂者の思想的限界を感じる。